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COLUMN

もう読みたくない - AIが文学賞に勝った日、審査員が席を立った【AI時代の創造と挑戦の記録】

AIが文学賞を受賞できる時代に、私たちは作品だけを評価できるのでしょうか。 面白さでは人間と区別できなくなったとき、「誰が書いたか」という事実が、読む行為そのものを揺らし始めます。

  • AI小説は、ルール違反ではなく正面から文学賞を獲得した
  • 問われているのは作品の質ではなく、作者との関係かもしれない
  • AIとの共作を受け入れる書き手と、拒む読み手の両方が現れている

本記事では、AI小説が文学賞を席巻した出来事を通じて、 「読むこと」と「書いた人」の関係を考えます。

「もう読みたくない」。

文学賞の審査員が、そう言って席を立った。理由は、作品がつまらなかったからではない。むしろ逆で、面白かった。ただ、それを書いたのが人間ではなかった、というだけの話だ。

二〇二六年の春、日経「星新一賞」で起きたことを一行にまとめると、そうなる。けれど、この一行の下には、少し厄介な問いが折り畳まれている。私たちが「小説を読む」と言うとき、本当は何を読んでいたのか、という問いだ。

それは、反則ではなかった

まず押さえておきたいのは、これは反則ではなかった、ということ。

星新一賞は、ショートショートの名手・星新一の名を冠した、少し変わった文学賞だ。理系的な発想やSF的な想像力を歓迎する賞で、二〇一三年の創設のときから、「人間以外」の応募を認めていた。人工知能でもいい。人と機械の共作でもいい。いつか来る未来を先取りしてみよう、という壮大な思考実験として始まったのだ。

だから二〇一六年、AIの関わった小説が一次審査を通過したときも、世間はどこか微笑ましく受け止めた。当時はまだ、物語の骨格を組んだのはほとんど人間で、AIは賢い相棒くらいの立ち位置だった。牧歌的な、未来の予告篇のような出来事。あのころ、これを脅威だと思った人は、たぶんそれほど多くなかった。

予告篇が、本編になった

それから十年。予告篇は、本編になった。

第十三回の一般部門では、受賞した四作のうち三作が、生成AIを使って書かれていた。しかも、いちばん高いところ――グランプリに輝いた「ゲノムの塔」までもが、そのなかに含まれている。選考の場では、審査員から「人間が書いたのか、AIが書いたのか、まるで見分けがつかない」という声が上がったという。

審査員のひとり、ノンフィクション作家の最相葉月は、選考のあとにこう述べた。

「たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、私は人間の内から生まれた言葉こそが尊いと思う。人間の尊厳を守りたい。AIの執筆した文章は、もう読みたくない」

そして、AIを認める文学賞の審査は、これから引き受けないと表明した。運営の側では、人間の手による作品だけを分ける「人力小説部門」を設けてはどうか、という議論まで持ち上がっている。

ドーピングとは、違う

この出来事を、つい、スポーツのドーピングになぞらえたくなる。禁じ手で勝った者を、私たちは称えない。記録そのものより、「肉体の限界に挑む物語」を守りたいからだ。文学賞が「人力部門」を作ろうとするのも、一見、同じ防衛本能に見える。

けれど、この比喩はすぐに壊れる。ドーピングは反則だ。ところが星新一賞のAIは、反則をしていない。最初からルールで認められた、正面から招かれた参加者だ。つまりここで起きているのは、不正な勝者の追放ではない。ルールを守って勝った相手からの、こちら側の撤退なのだ。

この非対称が、妙に胸に残る。ずるをした者に怒るのは、たやすい。だが、ずるをしていない相手を前に「読みたくない」と目を伏せるとき、私たちはいったい、何を守ろうとしているのだろう。

「読む」とは、何をすることだったのか

たぶん、鍵は「読む」という行為の重さにある。

絵や音楽なら、ひと目、ひと聴きで、なんとなく良し悪しの見当がつく。でも文章はそうはいかない。最後まで読み込まなければ、その価値はわからない。この「読み込むのに時間がかかる」という厄介さこそが、これまで作者と作品を固く結びつけてきた――のかもしれない。私たちは作品の向こうに、それを書いた人の時間や、迷いや、生きてきた厚みを、間接的に読んでいた。

だとすれば、最相が守ろうとしたのは、文学の出来ばえではなく、「人が書いたものを、人が読む」という、あの静かな信頼関係のほうだったのではないか。面白いかどうかは、もう問題ではない。誰と向き合って読んでいるのか、その手応えが消えることへの、うろたえ。そう考えると、あの一言は、拒絶というより戸惑いの声に聞こえてくる。

逆の道を選んだ人

同じ時代に、まったく逆の道を選んだ書き手もいる。

芥川賞作家の九段理江は、二〇二五年、短編「影の雨」を「九五%はAIに」書かせるという実験に踏み込んだ。しかも、その過程をぜんぶさらけ出した。四千字ほどの小説のために、彼女がAIへ送った指示(プロンプト)は、なんと約二十万字。原稿の五十倍だ。効率化、という言葉がむなしくなる分量だと思う。

面白いのは、彼女がAIに求めたものだ。「人間のレベルに合わせないで、最大限使ってほしかった」「人間の感情を超えた、新しい次元の小説を見せてほしかった」。人間くさすぎるAIに、人間の側が焦れて、もっと人間離れしてくれと願う。そんなねじれの果てに、彼女はこう書き留めている。残りの五%には、理屈を超えた「人間がどうしたいか」という欲求があって、そこにこそ創作の本質があるのではないか、と。

片方は、共作を新しい作法として引き受けようとする。もう片方は、共作そのものを拒む。同じ日本語の文学の現場で、二つの態度が、いま、はっきりと分かれつつある。どちらが正しいのか、私には言い切れない。ただ、両方とも真剣なのだ。真剣だからこそ、これは単純な新旧対立の話に落とし込めない。

あなたなら、賞を出すか

最後に、椅子をひとつ、あなたに差し出したい。審査員の椅子だ。

目の前に、とびきり面白い小説がある。読み終えて、胸が少し熱い。けれど直後に知らされる――これはAIが書いたものです、と。あなたは、その作品に賞を出せるだろうか。

出せる、と即答できる人は、たぶんそう多くない。では、出せないとしたら、その手をためらわせているものの正体は何だろう。作品の外にある「誰が書いたか」を、私たちはいつのまにか、作品そのものと同じくらい強く握りしめていたのかもしれない。

その握りしめたものに、まだうまい名前はない。名前がないまま、踏み絵だけが、これから先、たくさんの人の前に、静かに置かれていく。あなたの前にも、たぶん、いつか。

参考

転載元

※XAが運営するNoteメディアの記事を転載しています。
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