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COLUMN

整いすぎた世界の手前で【AI時代の創造と挑戦の記録】

AIによって「正しい」文章や画像は大量に生成できるようになりました。 しかし、その正しさが積み重なるほど、世界は静かに均質化し始めています。

  • AI生成コンテンツは意味的に似通いやすい
  • 「整っているのに何も残らない」感覚が広がっている
  • これからは合理を少し外れる感覚が価値になる

本記事では、AI時代の「整いすぎた世界」と、 そこから距離を取ろうとする人間の感覚について考えます。

みなさん、最近こんな感覚をお持ちでないだろうか?

「これAIで書いた文章だな」 と。

一言で言えば、整いすぎている。しかしこれは奇妙な不満だ。整っているのは普通なら歓迎されるはずである。読みやすい文章のどこが悪いのか。整理された議論にケチをつけるのは、自分の意地の悪さの言い訳でしかないのではないか。そう思ったりもした。

でも最近、似た違和感を別の場面でも感じる。

AIに何度か同じテーマで文章を書かせると、表現は違っても言いたいことが収束してくる。生成画像も、最初の数枚は驚くが、十枚も並べると全部似たテイストの顔をしている。プロダクトのコピーをAIで量産すると、業界が違うはずなのに、文末がどれも妙に温かい。

世界が金太郎飴に近づいていく感じ、と言うと共感してもらえるかもしれない。

この体感は、実は最近の研究データとしても示されている。

スタンフォード大学、インペリアル・カレッジ・ロンドン、インターネットアーカイブの共同研究によれば、2025年中頃で新規公開ウェブサイトのおよそ35%がAIで生成、ないしAIに支援されたものだった。ChatGPTが公開された2022年11月以前、この比率はほぼゼロだったから、3年で4割近くまで来たことになる(注1)。

そして研究チームの解析では、AI生成と判定されたページはペアワイズの意味類似性スコアがおよそ33%高く、同じような主張が似た言い回しで繰り返されていた。さらに、AI生成テキストは人間のテキストよりポジティブ感情のスコアが107%以上高いという結果も出ている。これは同意を求め、承認を欲しがる言語表現にモデルが寄っていく傾向と結びつけられている(注2)。

つまりAIが書く世界では、論点が静かに狭くなり、トーンは異様に明るくなっていく。

面白いのは、研究チームが事前に立てた六つの仮説のうち、統計的に有意に確認されたのは「意味類似性の上昇」と「ポジティブ感情の上昇」の二つだけ、という点だ。事実精度の低下も、文体の画一化も、データ上は支持されなかった。

ところが同時に行われた一般調査では、画一化が起きているという仮説に、83%の人が同意していた(注3)。

実証データは「文体は画一化していない」と言い、人々の体感は「画一化している」と訴える。

ここに何かある、と思った。たぶん人々の体感は間違っていない。ただ、画一化されているのは文体ではない。もっと深いところ、つまり何を語り、何を語らないか、という意味の地平のほうだ。研究者たちはそれを「オンラインのオーバートン窓が狭まる」と表現し、多様な現実──ネガティブな現実も含めて──を扱う公共の議論が、温かく均された言葉に押し流されていくと書いている。

ちなみに、「slop(スロップ)」という単語は、Merriam-Websterによって2025年の言葉に選ばれた。AIが流し込んでくる、表面はきれいで感じはいいが、読後に何も残らないコンテンツ。それを名指す言葉が、生活語として定着してしまった(注4)。

整っているのに何も残らない、という現象には、もうそれ専用の単語があるということだ。

「正しさ」がいつから退屈になったか

ここで少し歴史を振り返ってみたい。

合理性と画一化の関係というのは、人類が二十世紀にすでに一度通った道だ。

ル・コルビュジエの『輝く都市』構想がわかりやすい。光、空気、緑、機能。人間が快適に暮らすために必要な要素を、合理的に整理して都市に配置すれば、人類は幸福になるはずだった。実際、戦後の世界各地に、彼の思想を継いだ団地や住宅ブロックが建てられた。

結果として何が起きたか。世界中の郊外が、奇妙に似てきた。パリ郊外も、東京の多摩ニュータウンも、ブラジリアの居住区も、シカゴの公共住宅も、同じ顔をしているように見える。合理的に最適化した個々の答えを集めると、集合としては均質になる。これはモダニズム建築が二十世紀後半に直面したパラドックスだった。

似たことは他の領域でも起きていた。フォードの量産ライン、テイラーの科学的管理法、エスペラント運動、ISO規格群。それぞれの動機は美しい。摩擦を減らし、誤解をなくし、人類を共通の合理性のもとに統合する。けれどもその先で、人々はだんだん退屈しはじめた。

二十世紀後半に流行した「ポストモダン」と呼ばれる思想群は、その退屈に対するある種の反作用だった、と理解している。

その中心にいた一人が、「脱構築」で有名なジャック・デリダだ。

「脱構築」という概念は、しばしば誤解されてきた。「相対主義」や「真理の否定」みたいな話に矮小化されることが多い。けれど本来の脱構築は、もっと丁寧で、もっと地味な作業だ。

政治思想史の研究者である板倉圭佑の論文「脱構築と思想史──抑圧されたものの思想史に向けて」では、デリダの脱構築が「抑圧されたものの思想史」として読み直されている(注5)。

ある思想が「これが真理だ」と言い切るとき、その背後では必ず別の可能性が排除されている。声を持たなかった言説、忘れられた選択肢、選ばれなかった道。脱構築は、そういう「抑圧されたもの」を、もう一度議論の土俵に呼び戻す作業だと、その論文は書いている。

真理を否定するのではない。真理にたどり着いた瞬間に切り捨てられた、別の可能性をもう一度見ようとする。

これは、いまAIに対して取りうる態度の話と、深いところで重なってくる気がする。

AIが「再現している正しさ」は本当に正しいのか

ひとつ問いを置きたい。

いまAIが生成している言葉、構成、ロジック、語り口というのは、デジタル上で「正しい」とされてきたコミュニケーションを学習した結果として出てくる。検索エンジンに最適化された記事、SNSでエンゲージメントを稼いだ投稿、ビジネス書のフレームワーク、コンサル提案書の構造。

それらは「正しい」と見なされてきた。実際に成果を上げてきた。だから学習データとして優先された。だからAIはそれを再現する。

ここまでは合理的だ。

立ち止まって考えてみる。

その「正しさ」って、本当に正しかったのだろうか。それしか手段がなかった、ということではなかったか。

検索エンジンに最適化された記事の構造は、SEOというルールの上での最適解だ。SNSのエンゲージメントは、プラットフォームのアルゴリズムが評価する文脈での勝ち筋だ。コンサル提案書のロジックは、限られた時間で意思決定をしてもらうための妥協の産物だ。

つまりそれらは、ある特定の制約条件のもとで最適化された言葉の使い方であって、コミュニケーションそのものの最適解ではなかった。手段が他になかったから、それが「正しい」と呼ばれるようになっただけ、という可能性がある。

いまAIは、その「他に手段がなかったから生まれた正しさ」を、忠実に再現している。

再現しているのか、固定化しているのか、どちらなのだろう。
もしかすると極めて狭い世界での「真理」や「正しさ」なのではないだろうか?
もっと自由でいいのではないだろうか?

退屈の手前にとどまる

冒頭の違和感に戻ろう。

整いすぎた文章を読んで、何も残らない感じ。あれは何か。

たぶん「真理に到達してしまった感」だ。論点は揃っている。論理は通っている。結論は妥当だ。あらゆる反論は先回りされて、温かい言葉でフォローされている。読者として、もう、することがない。

人間が言葉を読むという行為には、ふつう、もう少し痕跡が残る。納得しきれなかった部分、引っかかった一文、書き手の言い淀み、未整理のままで投げられた問い。そういうものを抱えて、読者は読了する。だから何かが残る。

整いすぎたテキストには、その痕跡がない。だから何も残らない。

これは、退屈、と呼んでいい現象だと思う。

そして退屈を感じるというのは、人間としてのかなり大事な能力なのだと、最近思うようになった。退屈は、いまここにある「正しさ」が、自分にとってはまだ最終解ではない、ということを知らせてくれる感覚だ。

AIが整えてくる世界が広がっていくほど、私たちのこの「退屈を察知する力」は、たぶん大きな財産になる。

始まりかけている、小さな脱構築

何かが始まっている感じはある。

たとえば、「AIスロップ」を名指す言葉が市民権を得たこと。Pinterestやインスタグラムが、AI画像の流入をユーザー側で制御できる機能を実装したこと(2025年秋)。検索結果に「人が書いたもの」を優先する選択肢を求める声が、ふつうのトピックとして語られるようになったこと(注8)。

これらは「AI反対」みたいな話ではなくて、もっと深い意味で「整いすぎた正しさからの、距離の取り方」の模索のように見える。

ブランディングやコンテンツの仕事をしている人たちにとって、これはたぶん、決定的な時代の変わり目だ。AIが量産できる「正しい何か」と並走するだけでは、もう、何も残らないコンテンツの一部にしかなれない。

何を語らないか、どこで合理を断つか、いつ妙な比喩を持ち込むか。そういう「抑圧されてきたもの」を、もう一度議論の土俵に乗せる仕事が、たぶん次の差別化の輪郭になる。

これは脱構築の現代的な姿だ、と感じている。デリダがやろうとしていたことを、いま、ビジネスの現場で別のかたちで再演しはじめているとも言える。

合理的に考えたらやったほうがいいけど、あえてやらない。

AIが「これが正解です」と差し出してきたものを、いったん受け取ってから、横に置く。そして自分たちが信じる別の文脈を、こっそり横から滑り込ませる。

そういう仕事の仕方をしている人を、最近ちらほら見かけるようになった。きれいに整った戦略書を量産するより、未整理の問いを抱えて社内を歩いている人のほうが、結果的に組織の中で強い動きを生んでいたりする。

合理の最適解から少しだけ外れた地点に、人間が住める余白がある、ような気がしている。

ここまで書いてきて、自分でも整理しきれていない。

「正しさ」が悪いと言いたいのではない。むしろ、これまでの「正しさ」は、たいてい正しかった。だからAIはそれを学習できたし、いま再現できている。

そのうえで、その正しさの手前か、その先に、まだ語られていない別の可能性があるのではないか、と問いたい。それを問うこと自体が、おそらくこれからのコミュニケーションの主戦場になる。

正しさを誰が決めるかという話は、向こう数年で、技術論というより文化論になる。

AIに合理を出させて、それを断る勇気をどこに持つか。整いすぎた世界の手前で、どこまで立ち止まれるか。退屈を退屈として味わいきって、その先の何かを探せるか。

そういう、ちょっと手間のかかる態度に、いま戻ろうとしている人たちがいる気がする。

自分もできているかというと、まだ全然できていない。

ただ、できていないからこそ、これを書いている。
Created to Create 編集長として、整いきらないこういう文章を一つ置いておきたかった。
このような形での発信にもお付き合いいただける読者様にも改めて感謝である。

【注】

転載元

※XAが運営するNoteメディアの記事を転載しています。
“つくる火”を分かち合うメディア「Created To Create」

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